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ところで、小名木川の護岸工事もだいぶ進んでいるようですよ。
これは、四つ目通りが通る小名木川橋のところ。
番所橋のほうなど、もう工事が終わっているところもありますが、自転車は通行不可。
江東区は「水彩都市 江東」ってコピーを掲げてるくらいだし、楽しみですねー。
新高橋。
西深川橋。(の看板)
この萬年橋は、富嶽三十六景にも描かれています。
(昔は帆かけ船が通れるように、橋はみんな太鼓橋だったそうです。)
行徳の塩田から、江戸川→新川→中川船番所→小名木川と塩を乗せて来た船が、ここで富士山を見ながら隅田川に出るわけですねー、なんて一人思いを馳せてみると、
隅田川は広いですね。
「着いたぜ、江戸ーーー!」
って感じだったのかな?
ホントに天下の往来って感じ、昔もたくさんの船が行き交ってたんでしょうね。
あ、この写真、遠くに新大橋が見えてますね。好きなんですヨットみたいな形が。
船の上から見ると、本当に波間に浮かぶヨットみたい。
読売新聞のビル。
この穴って、香港のビルみたいに風水がどうとか、龍の通る道がどうとかってことなのかと思ってたら、穴の向こうに見えてるビルの日照権問題をクリアするために空けられた穴なんですって。
しかも、読売新聞のオフィスは上の方だけで、穴の両脇の部分は住宅だなんて。
穴側の角部屋、せっかくの角部屋なのに横には小さい窓1個しかないし、なんか不思議。
おトイレかな、お風呂かな。
帰りは、永代橋の写真がありました。
今の永代橋は1926年に出来たもので、現在87歳。
おお、内海桂子師匠よりも年下ですね。
初代永代橋は徳川綱吉が50歳になった記念に作られ、赤穂浪士にかかげられた吉良の首もこの橋を渡ったけれど、およそ100年後に深川の富岡八幡宮の大祭の時、大勢詰め掛けた江戸の人たちの重みで落橋(死者行方不明者1400人の大事故)。二代目永代橋は関東大震災の時に炎上。
そっか、内海桂子師匠は震災を経験してるけど、今の永代橋は震災復興で架け直された橋なんだから、年下に決まってるのか。
と、なぜ桂子師匠基準で語ってるのかよくわからなくなって来ましたが、桂子師匠のTwitter好きなんです。あと、永代橋wikiが楽しすぎました。
IBMビルの横を通って、旧山一ビル裏にある、ハーモニカみたいな豊海橋から日本橋川に帰ります。
夜はライトアップされますよね。
そして少し行くと見えて来た、お酢のミツカンのビル。
前にこのあたりで働いていたと書きましたが、このあたりの地名に日本橋小網町というのがあります。
調べたら、昔この川で白魚が採れていて、その白魚漁に使う目の細かい網がたくさん干してあったからなんだそうです。ここで獲れる白魚は将軍様への献上品だったようですよ。極上品だったんでしょうね。
で、ミツカンのビルに戻りますが、この日本橋小網町や日本橋蛎殻町など、茅場町の界隈ってやたらと食べ物にまつわる会社やビルが多いんです。歩いていて、いつも不思議に思っていました。
例えば目立つところだと、永代通り沿いには日清オイリオのビルがあったり、ブルドックソースの本社もこの川からほど近いですし、お酢に油、ソースと来て、小麦粉なら日清製粉をG地図で検索するとグループのオフィスが3つこの川沿いに並んでいるし、お酒なら大関に盛田の東京支店や、他にも塩元売協同組合、全国醤油工業協同組合連合会、全国味噌工業協同組合連合会などなど。
油に塩、醤油、味噌、小麦粉に酒、とこんな企業や団体がひしめき合っているのは、ここが船の荷下ろしの場所だったからなんだそうです。
その昔は川の両岸にはたくさんの倉が並んでいたそうで、写真のミツカンのビルを見ると、とても薄っぺらいですよね。地図を見るともっとよくわかりますが、この川の両岸のビルはみんな薄っぺらくて細長い形をしています。
よく行ったデニーロというイタリアンのお店も、入口を入ると細長い店内の奥まで続くながーい窓とながーいソファに、まるで電車みたいに人が並んでパスタを食べていたのを思い出しました。
銚子の醤油は、新川と小名木川の完成で、利根川→江戸川→新川・小名木川を通って江戸に伝わったというし、ここで荷下ろしされた醤油が使えるようになって、佃島で佃煮(それまでは小魚や貝を塩茹でしていた)が作られるようになったなんて説もあるそうですよ。
江戸の人たちの台所だったんですねー。
そういえば前に、神田近辺にやたらと製薬会社とか、龍角散ビルなんていうのがあったりするのが不思議で調べたら、薬の座があったからなんてことがありました。こういうの大好きです。
湊橋。
帆船のモニュメントがあります。
船の人が見る用?
行きにはくぐらなかった湊橋。
今回かなりたくさんの橋をくぐりましたが、こんなにツルツルなのは初めて。
江戸橋JCTまで戻って来ました。
東京オリンピックに間に合わせるために急いで作らなければならなかった首都高速が、用地買収が間に合わずに日本橋川の上に首都高を通した話は有名ですが、この写真でどんどん左に進む首都高環状線の銀座方面行きも、実は川の上を通したものだったそうで、昔はここで左側から楓(もみじ)川という川が流れ込んで来ていたんだそうです。
江戸川区にある紅葉川高校は、元々このあたり(兜町)から移転して来たんだそうですよ。
あ、そうだ。そうかも。
帰りは一度発着場がある日本橋を過ぎて、3つのときわ橋へ。
これは常盤橋。
車も通ってます。
これは常磐橋、人道橋です。
って、さっきのときわ橋とこっちのときわ橋、漢字が違うのに気付きましたか?
2文字目の下が、皿の常盤橋と、石の常磐橋。
橋なのでお皿のように割れては困ると、石の常磐橋の名前が付けられたとか。
橋の左側には常磐橋公園があって、江戸時代の門跡などがあるようですし、最近古い人道橋に興味があるので、今度自転車行ってみよう!
って思ったら、昨日2013年3月27日付けで、現在通行不可のニュースがー。
うーん、公園だけでも入れないのかな。
行ってみればわかるかな。
そして、3つ目のときわ橋、新常盤橋。
地元の方は紛らわしくないんでしょうか。
で、この橋は最初の2つより新しいからいいとして、この奥です。
ほぼ隣り合わせみたいに、この日本橋川に架かっている橋です。
グリーンの橋が新常盤橋、ブルーグレーの橋が新幹線。
ということは、その向こうの石造りの橋は、
こ、これはー!
そう、山手線や中央線が通る、JR外濠橋です!
昔のもののはずなのに、石が緻密に並べられてアーチ状になってます。
うわー、これはかっこいい!
これは石で煉瓦ではないけれど、そういえばきれいにする前の東京駅に似てる感じ。
今だ現役、すごいなー。
神田橋JCTの下あたりから見た、JR外濠橋。
それにしても、首都高って車で走ってても無茶な作りしてるなーって思うけど、船で下から裏側を見てみても無茶だらけですね。
電車ギリギリですよ。
そして、橋の真ん中には、旧国鉄の紋章が飾られているそうです。
見えた!
出来上がった年、「大正七年」って書いてあるそうです。
昔ここを船で行き交う仕事をしていた人たちはこの紋章と電車を見上げながら、「あー、これからはもう俺たちの時代じゃねぇ。電車の時代が来るんだなー。」なんて思ったりしてたんでしょうか。当時はすごい建造物だったと思うんですよね、最新型の。
でも21世紀になった今、時代は平成。
貨物列車もほとんど見なくなって、ずっと車の時代が続いているけれど、でもまた大きな地震があってまた水運が見直されてますよー。船と人が江戸の川に帰って来ましたよー。
と伝えたい気持ち。
そう、今回のクルーズでは「水運や水辺復活への気運」、
みたいなものを感じました。
がんばれ、東京の川と運河。
そしてまた引き返して来て、ケルヒャーのCMと同じアングルの日本橋へ。
船長さん、クルーズガイドさん、お疲れさまでした。
そして、こんなブログを最後まで読んで下さった方もお疲れさまでした、ありがとうございました。
思いがけず、お花見までついて来た東京の運河めぐり、二度目のクルーズ。
もともとは江戸川CRから走り始めたわたしが行き交う屋形船を見て、「いつも自転車で走ってるこの道を一度あの船に乗って走ってみたい。」って思ったのがきっかけでしたが、自転車で走ったところを船で通る、そしてまた自転車で通り直してみるというのは、視線に奥行きが出る感じでとてもおもしろいです。
何より、船も気持ちいいし。
次は水陸両用バスのスカイダックを狙いつつ、昔からの夢、丸の内線の淡路町と御茶ノ水駅の間で一瞬だけ外に出て神田川を渡る橋、あの橋の下を通ってみたいです。
じゃ、まただワン!
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